(「2015 親分ここはいけません」より。)
耳をふさいで音が遮断されると、視覚でとらえた水が「一面の青」として迫ってくる。ミミヲフサゲバ/ミズハイチメンノアオの7音と10音で一気に読むのがよさそうに思える。水面を見ているはずなのに、水の中にいるような気もして不思議な感じがする。
らきさんが、2015年に書いた川柳とエッセイをまとめた作品集を送ってくださった。らきさんは、毎年きちんと自分の作品をまとめていらっしゃる。それは大切なことだし、毎年続けていらっしゃるのはすごいなと思う。書きっぱなしのわたしは、「ごめんなさい」と言いたくなる。らきさん、おからだに気をつけて2016年もいっぱい川柳をつくってくださいね。
2016年4月22日 22:58
(「ことばの国の猫たち」より。)
木本朱夏さんが監修なさった猫川柳のアンソロジーが、あざみエージェントから出版された。猫句と猫の写真と猫エッセイだけで構成された本である。バッグの中にちょこんと収まるコンパクトサイズなのだが、これを入れていると無敵感バリバリである。不思議なお守りのような1冊だ。写真の猫ちゃんたちのせつないほどの愛らしさも効果絶大なのだろう。
お気に入りの猫川柳を発見。
猫はまた遠いところを噛んでいる 徳永政二
ねじまきメンバーの句も見つけた。
チェシャ猫に呼び戻される脱衣場 なかはられいこ
告白の練習用に猫借りる 丸山進
国境も仔猫も軽く踏んじゃって 瀧村小奈生
2016年4月18日 14:33
きのう、生徒のお母様お二人から塾の30周年を祝うお花をいただいた。え!そんな!ちょっと前にそんなことも話したのだけれど、なんとなく過ごしていた。お祝いしていただけるなんて思いのほかのことで感動した。私の過去の誕生日の中で、いちばん印象に残っているのは30歳の誕生日である。これも思いがけず生徒のご両親に祝っていただいたので状況が酷似している。30歳と30周年。きっとわたしのラッキーナンバーは30にちがいない。そして、わたしに思いがけない幸せを届けてくださるのはいつも生徒の親御さんなのだ。感謝。
2016年4月15日 22:28
ブログが1カ月近く頓挫した。いわゆる「こけた」のである。理由は、こけたから。転倒して肩を骨折した。2月19日金曜日の朝の名古屋駅地下街で。こけたのもショックなら折れたのもショック。角を曲がると何が出てくるかわからないと、また改めて痛感した。そんなこんなで3月を迎えている。
2016年3月 7日 22:54
そう言えば出しそびれた宿題があった。朝日カルチャーの川柳講座の「代」である。眼科で緑内障の検査予約が入っていたので、あらかじめ欠席の連絡をしておいたのだが、「ひょっとしたら間に合うかも」ぐらいに思っていた。しかし瞳孔を開いて行う検査をなめちゃいけない。入ってくる光を絞れない真っ白なまぶしさを初体験した。きらきらと晴れていた日だったから一層だったかもしれないが、信号は判別できないし顔は上げられないしで驚いた。その日に出すはずだった宿題である。
2016年2月11日 18:20
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております 山崎方代
(「15歳の短歌・俳句・川柳」①愛と恋より。)
私がこの短歌に初めて出会ったのは今から10年ちょっと前のことだ。「知っております」にどきっとした。知っているのが「南天の実」でなかったら、そうは感じなかっただろう。あの赤い実のもつ不思議な力である。わたしにとって、「南天の実」は動かないモノであった。幼い頃、悪い夢をみたときは南天をゆすっておくとよいと言ったのは母方の祖母だ。祖母の家の中庭には涸れた井戸と南天と葉蘭があって(もちろん他にも木は植えられていたはずだが覚えていない)、ちょっと怖くてちょっと心ひかれた。土間になった台所から中庭に抜ける通路の薄暗さと南天の実の赤が記憶に残る風景である。
2016年2月10日 17:30
(「15歳の短歌・俳句・川柳」①愛と恋より)
『突然炎のごとく』の章に収められた俳句である。この迫力は川柳では出せないと一句の前に思わず立ち止まった。強い。なぜそうできるのだろう。裏返せば、川柳ではなぜそうならないのだろうということになる。
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
この俳句も同じ章の中に見つけた。同じく命令形である。そう言えば、というのはあまりにも迂闊だがこの有名な句も俳句だった。川柳とは明らかに違う俳句の世界だと思う。
2016年2月 9日 17:18
瀧村小奈生…2004年、川柳に出会いました。なかはられいこさん主宰のねじまき句会がホームグラウンドです。短詩の森をおろおろと探索しながら呪文さがしをしています。